印象派ゆかりの地

2010-06-16

ゴッホの理解者であり主治医だったガシェ医師の家(La Maison du Docteur Gachet)へ

Mai18オヴェールの外れの高台にあるガシェ医師の家へ。
オヴェールに到着し、医師に会って12日後に描いた絵“ガシェ医師の肖像”。

ゴッホは弟テオへの手紙に「憂鬱さを強調してガシェさんを描いた」と綴っています。

ガシェ医師は精神科医でもありましたが、彼の病院はパリにあり、精神科だけではなく内科も診る総合医でした。彼は水曜日から土曜日までパリで働き、土曜の夕方から火曜日は自宅のあるオヴェールに帰り、週末はゴッホを診ていたそうです。

ゴッホは町の高台に立つガシェ医師の家で、ガシェ医師の肖像画を始め、庭や家族の絵を描きました。
Mai19庭には画家達が書いた場所に透明のパネルが置いてあります。セザンヌもピサロにガシェ医師を紹介されオヴェール・シュール・オワーズに移り住んでいます。セザンヌの“ガシェ医師の家”
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Mai24オヴェールの環境はゴッホにひと時の安堵を与え、ゴッホは精力的に絵を描きました。
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自身も画家でもあり、ピサロやセザンヌなど数多くの画家たちと交流のあった精神科医、ガシェ医師。 コローやドーミエ、1870年になるとピサロ、セザンヌ、ルノワールらがこの町に移り住んできて、ガシェ医師宅に集うようになります。
心身共に病み疲れたゴッホが、この町に姿を現すのは、1890年5月のことでした。ゴッホはたびたびこの家で食事に招かれていました。

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お花でいっぱいの庭の美しさも必見です。












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ゴッホの“ガシェ医師の庭で”(オルセー美術館)。

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Mademoiselle_2ゴッホの“庭のガシェ嬢”(オルセー美術館)。

Mai37地上階には、印象派の画家達が集ったサロンが、当時のまま残されています。
1階は、ガシェ医師と、ゴッホとにまつわるものが展示されています。
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Mai40ゴッホは、弟テオに宛てた手紙の中で、”彼(ガシェ医師)は、親友のようであり、また兄のような存在。僕達は、どこか似たところがある。”と語っていたそうです。


























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Mai44ガシェ医師の人となりや、多くの芸術家の拠り所となった医師の、見識の高さ、センスの良さが伺える空間でした。
Mai47ゴッホが絵画を制作した年月は10年間だけです。そしてその10年の中で、オヴェールに暮らした70日間が最も作品の点数が多いと言われています。オヴェールの町を訪れて、点数の多さだけでなく、ここで描いた絵画を鑑賞すると、ここでのゴッホは画家人生で最も充実し、幸福だった日々だったのだと、改めて感じました。
Mai50パリを通って帰ります。

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2010-06-04

世界中のゴッホファンの巡礼の地、オヴェール・シュール・オワーズへ

Juin_2パリから北西に約30キロ。オワーズ川(L’Oise)を望むオヴェール・シュル・オワーズは、印象派の画家達に愛されたのどかな田舎町です。南フランスのサン・レミからゴッホオヴェール・シュル・オワーズにやってきたのは1890年の5月20日、ゴッホが37歳の時です。

37年の生涯で、ゴッホが画家だったのは、27才からの10年間です。そして今日、私たちが目にするゴッホの作品は、最期の約3年の間に描かれたものが大半です。

そしてオヴェール・シュール・オワーズは、天賦の才能に恵まれながら37歳という短い生涯の終わりを迎えなければならなかったゴッホの終焉の地です。
Juin01ゴッホ『オヴェールの教会』の教会が見えてきました。
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Juin02ゴッホが人生の最後に住んだラヴー亭(Auberge Ravoux)

サン・レミの精神科病院からゴッホがこの町に移ってきたのは、ピサロが友人であるゴッホを病院に入れるよりも、精神科の医師であり、美術収集家でもあるガシェ医師の保護の下で、自由に絵を描かせてあげたいということからでした。

ゴッホは自殺するまでの2カ月間、晩年の傑作といわれる『オヴェールの教会』『カラスのいる麦畑』など、この町の建物や風景をモティーフにした70点あまりもの作品を描きました。

ゴッホも食事をした1階のカフェは現在レストランとして営業しています。
Juin03“画家のフィンセント・ヴァン・ゴッホは、この家に住み1890年の7月29日に亡くなりました”と書かれています。
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Juin08_3ラヴー亭は面倒見の良い親切ラヴーさんの経営により、多くの村人や村に集まる芸術家などが集まりにぎわっていました。人付き合いが苦手だったゴッホも表面上は容易に溶け込むことが出来たようで、ラヴーさんの娘、アドリーヌさんの絵をはじめたくさんの土地の人の肖像画も残されています。
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Juin06このラヴー亭の4畳ほどの屋根裏がゴッホの部屋。現在は元通りきれいに改修されゴッホ博物館として一般公開されています。

薄暗い階段を上がっていくと、小さな明かり取りの窓がある小さな部屋に、ぽつんと椅子が置かれています。

ゴッホは多くの作品を残しながら生前売れた絵はわずかに一枚。生活はすべて唯一の理解者、弟テオに頼りきっていました。できるだけ弟に負担をかけたくない彼にとって、パリにほど近いこのオヴェールは、格安の下宿料と、親身になって相談に乗ってくれる医師、そして絶好のモチーフを得ることができ、気兼ねなく安定した暮らしが手に入るはずでした。

6月初め、テオは、今の仕事が嫌になり自分で店を持つことを考えているという手紙をゴッホに送ります。そしてその手紙には、ゴッホに対して、近いうちに二人とも生活費を切り詰めなくてはいけないだろうというメッセージが入っていました。この知らせにゴッホはショックを受け、「自分の足でさえしっかりと立てず不安定なのに、僕の人生ももう根元までもだめになった」という言葉を残しています。

そして、7月27日オヴェールの麦畑でゴッホは自らの胸をピストルで撃ちます。しかし死に切れず、この部屋にたどり着き、2日後の7月29日早朝、彼の最も良き理解者であった弟テオに見守られ、37歳の短い生涯を閉じます。
Juin07_2隣の部屋。パイプベッドと、洗面台などが置かれた簡素な部屋。
Mai17_3ゴッホが絵の題材としたであろう風景の残る辺りを散策。
Juin09_6前方の階段は、

Juin10_2 『(5人の人物と)オヴェールの階段』の階段です。
Juin11オヴェールの美しい風景は、ゴッホを元気にし、亡くなる前の2ケ月、ゴッホは油彩・デッサンをほぼ一日に一点のペースで精力的に作品を仕上げています。
Mai16_2 ラヴー亭の裏手から丘へ登っていくと、
Mai413世紀に建てられたオワーズ川を見下ろす丘の中腹にある石造りのノートルダム教会。
ロマネスク様式にゴシック様式が混合されたもので、小さいながらも端正な教会です。
Mai13_2ゴッホがオヴェールに来て2週間後に製作した『オヴェールの教会』のパネルが手前にあります。大地の生命力を感じさせる鮮やかな色彩、筆の勢い、安定感から精神状態が良かったのだと感じさせます。
Juin12ゴッホが眠る墓地へ行く道は、ずっと麦畑の中です。(絵はゴッホ『雨』)
Juin13劇的な最期を遂げたゴッホと、兄の才能を最後まで信じ、面倒を見たゴッホを追うように兄の死後から半年後に亡くなった弟テオの墓は、現在のゴッホの絵の価格とは無縁の質素なものです。2つ並んで共同墓地の片隅に仲良く並んでいます。お墓の周りのアイビーはガシェ医師の家から持ってきたもので、兄弟の深い絆を象徴しているようです。
Mai8『カラスのいる麦畑』を始め、ゴッホがたくさん描いた麦畑のある風景が墓地近くに広がっています。見渡す限り麦畑。
Mai6ゴッホがピストル自殺を図ったのがこの麦畑と言われています。
Mai7『カラスのいる麦畑』。亡くなる直前に描かれた麦畑は金色に輝いています。亡くなる直前に描かれた絵ということで、この絵に狂気を感じるという人が多いですが、私には狂気は全く感じられません。ゴッホの死には謎が多いので、本当の理由はわからないですが、筆遣い・色彩も躍動感を感じられ、ゴッホが精神状態が良く、絵を描く喜び・自信を感じます。これから更に素晴らしい作品も描けたゴッホが道半ばに亡くなったことは本当に残念です。
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Mai10ゴッホは弟一家を休暇に呼びたがった程、このオヴェールの町が気に入っていたそうです。

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2009-07-16

ゴッホの見た風景を探しにアルルからサン・レミ・ド・プロヴァンスへ

Ss631889年5月8日、 ゴッホはアルルからサン・レミ(Saint Remy)に到着します。
アルルでのゴーギャンとの生活に破綻し右耳を自ら削ぎ落としてしまったゴッホは精神状態がますます不安定となり、より良い環境を求めてサン・レミサン・ポール療養院に転院します。ゴッホは激しい発作に見舞われながらも、ひたむきに創作活動に励みます。

サン・レミには預言者ノストラダムスの生家(非公開)もあります。
Ss69ゴッホサン・レミに到着してすぐに描いた、療養院の庭の『アイリス』(1889年5月、ニューヨーク・個人蔵)のパネル。サン・ポール療養院周辺には、ゴッホが絵を描いた場所が散在しており、そこにはその絵の複製パネルが置かれています。100年以上の時を隔てて、ゴッホと同じ場所に立って同じ景色を見ることが出来ます。

5月中はゴッホの行動範囲は、療養院の庭の内に限られますが、6月になると、戸外で自由に制作することが許されるようになります。夏の日差しの中で彼は、オリーブ園、麦畑、糸杉などをモチーフとする傑作を次々と制作します。
Ss641889年の7月に描いた『オリーブの木(と2つのくぼみのある山)』ホイットニー・コレクション所蔵。 






Ss68療養院の裏手にはアルピーユ山脈の地面から湧き出たような奇岩、レ・ドゥ・トル(2つのくぼみの意味)が見えます。





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サン・ポール療養院

の看板。



Photo9月に入り、ゴッホはミレー、レンブラント、ドラクロワなどの版画を熱心に模写し始めました。先人の作品を模写することは伝統的な絵画勉強法の一つですが、ゴッホにとっては白黒の版画作品を色彩という独自の“言語”で“翻訳”する試みだったそうです。聖職者の道を閉ざされ宗教への反感を抱きながらも、神を希求してやまなかった想いを、ゴッホは“宗教画の模写”という口実を使って託したと言われています。ゴッホが敬愛していた画家の一人、ドラクロワのリトグラフの模写。赤い髭を生やしたキリストの容貌は、ゴッホ自身に似ていると言われますが、彼の信仰は、自分をキリストになぞらえるほどの傲慢さを持ち合わせていなかったと個人的には思います。 
 
「 苦しみの最中にも、時に宗教的な思念が心を大いに慰めてくれることがある。ついこの前、病気に襲われている間に不運なことがあった。あのドラクロワの 《 ピエタ 》 のリトグラフが、他の版画数点と一緒に油と絵具の中に落ちて、台無しになってしまったのだ。僕はとても心が痛んだ。それ以来、あれを油絵にするのに精を出している。君にもいつか見せよう。僕はそれを5号か6号のキャンヴァスに写した。感じが伝わればと思う 」(ゴッホの手紙 )
Ss67『ペイルレ峡谷』(1889年10月、ボストン美術館所蔵)。
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『アイリス』(1890年)。

ゴッホの故郷オランダでの花の静物画の伝統にアルルで習得した独自の色彩感覚で、新たな領域に昇華させます。

生命感溢れる黄色にゴッホは健康な心身への憧れを託したのでしょうか?ネーデルランド絵画で見かける折れたアイリスは、生命のはかなさを表現しています。

サン・レミからオヴェール・シュール・オワーズに移る直前の作品です。

「ゴッホはすべて乱暴と混雑の中にあるくせに、カンヴァスの上では輝いている」とはゴーギャンの言葉です。


Ss72ゴッホが描いた頃とは、景色が違っているところもあります。















Lasile『サン・レミのサン・ポール療養院(1889年10月、オルセー美術館所蔵)』
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Oliviers 『オリーブの木(と黄色い空と光輝く太陽)』(1889年9月-11月、ミネアポリス美術館所蔵)
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Olivier2 『オリーブの木』(1889年9月-12月、クレラー・ミュラー美術館所蔵)。
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『糸杉のある黄色い小麦』(1889年7月、ナショナルギャラリー所蔵)。
描いた場所はここから30分程歩いた場所だと言われています。
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『山のふもと』(1889年6月、個人蔵)。
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病院の外壁にそって、のんびりと歩きます。、こんな細い道にもゴッホの足跡があります。

Ss86景色はゴッホが描いたものと変わってしまったようですが。












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『(サン・ポール療養院の裏の)サン・レミの景色』(1889年10月、インディアナポリス美術館所蔵)。
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オヴェール・シュール・オワーズに旅発つ前にゴッホは記憶で描いたと言われている『糸杉の道』(1890年5月、クレラー・ミュラー美術館所蔵)。

オヴェール・シュール・オワーズからゴーギャンに宛てた手紙の下書きのなかで、ゴッホはこの作品を、サン・レミでの最後の試みのひとつ、としています。









Ss89病院の塀。









Ss119ゴッホ 晩年期の傑作『星月夜』。
















Ss117ゴッホが1889年5月から1890年5月まで入院していた療養院の入り口。








Ss91現在は観光客に開放されており、ショップも併設され、庭などが散策できますが、いまだに療養所/病院として使われている部分もあります。














Ss97ゴッホは入院当初、外出は禁止されていたので、外壁に囲まれた病院の庭で人に付き添われて製作をしました。『サンポール療養院の庭』が病院までの道の塀に飾られています。






Ss98サン・レミ在住の時に製作した『自画像』。
Ss99この病院の庭は、この頃のモチーフとして油彩やデッサンに描かれています。『下生え』。

この病院にいた頃、ピサロなどの数名の画家達がゴッホの作品に興味を持ち始め、ゴッホの作品への評価がわずかに聞こえてくるようになります。新聞の批評欄にはゴッホの作品への好意的な記事が掲載されるようになり、ブリュッセルで開かれた展覧会では唯一ゴッホの生前に売れた絵『赤い葡萄畑をテオが始めて売ります。


Photo_3アルルで描いた『赤い葡萄畑』』(モスクワ・プーシキン美術館蔵)。









Ss101ゴッホ像。度重なる「幻聴と幻覚を伴う重度の躁病の発作」に悩まされながらも、ゴッホの創作活動は衰えることを知らなかったそうです。
Ss102修道院。
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ゴッホの病室。


Ss109病室の薄暗い部屋の窓は小さく、しかも外部からはしっかりと鉄格子で隔離されていました。夏の灼熱の暑さの中、狭い病室か眺める、照りつける夏の強烈な光あふれる南仏の景色。ここの環境が彼の病気の回復にどのような影響を与えたかは知る由もないですが、ゴッホの創作意欲を掻き立てたことだけは確かなようです。


Ss107この部屋の窓から生まれたのが、















Photo_4ゴッホ晩年期の傑作『星月夜』。

月や金星の位置を基にした天文学による計算から6月19日の星空と推定され、ゴッホは実際の空を忠実に描いたと言われています。

『星月夜』は、聖書や心理学などの様々な視点から解釈されてきたミステリアスな作品です。

渦を巻く暗雲、レモンイエローの絵の具が効果的に用いられている光を放つ月の表現は観る者に強い印象を与えます。天高く伸びた糸杉を始めとする大半のものは病室から見た風景を元にされていますが、画面中央の教会と小村はゴッホの想像によって描かれました。

「自分は無性に宗教の必要を感じることがあり、そんな時は夜、外に星を描きに出る」(ゴッホの手紙)

ゴッホは星や月を託して信仰を描いたのでしょうか。
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このラベンダー畑の香りがゴッホを癒していたらいいな、と思いました。




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ゴッホがピストル自殺する5ヶ月前にサン・レミで描いた『花咲くアーモンドの枝』(1890年)

ゴッホがこの作品を描くきっかけとなったのは、弟テオ夫妻の息子の誕生でした。テオ夫妻は息子にゴッホの名前をつけます。ゴッホは自分の同じ名前の甥のために日本的情緒を感じさせる装飾的な構成で花咲くアーモンドの木を描きました。作品は完成するとすぐテオ夫妻に届けられます。

なぜ、アーモンドの花だったのでしょうか?アーモンドの花はヨーロッパでは1月末から2月ごろに咲きます。寒さに負けず、凛として、春や夏の花よりもよっぽど強い花です。

ゴッホはこの絵を描いた2年前の同じ時期、寒いパリから南仏の明るい光を求めて、アルルへ来たものの、雪が降るほど寒かったそうです。そのため、室内で、一輪のアーモンドの花、『グラスの中のアーモンドの花』を描いています。彼にとってアーモンドの花は、春を待つ希望の花だったかもしれません。

『花咲くアーモンドの枝』を描いたころ、ゴッホは精神的にかなり重い症状であったそうです。そのような中、同じ名前の甥のために、このアーモンドの花のように、強くたくましく育ってほしいという祈りで、集中力を保ち、愛情を持って必死でキャンバスに向かったのでしょう。

背景の澄み切った冬空の青が絶妙で、明るい未来を予感させます。

テオの妻ヨハンナは後に、寝室に飾られた空色の絵に赤ん坊がとても喜んだと語っています。

ゴッホは、1889年7月の激しい発作の後、彼は療養院の環境がかえって自分の精神状態にとって良くないと判断し、転地を希望します。翌年の5月16日、ゴッホはついにサン・レミを離れ、オヴェール・シュール・オワーズに向かいます。

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2009-07-14

印象派の光と浮世絵の色彩を求めゴッホが移り住んだ南フランスのアルルへ

Ss40フランスのドライブインに時々PAUL(ポール)があります。
Ss41南フランスのアルルは古代ローマ時代から中世にかけての歴史の息吹が強く感じられる町です。またアルルは中世の宗教の中心地でもあり、ロマネスク様式のサン・トロフィーム教会には彫刻装飾の美しい回廊が残っています。

そしてアルルゴッホが晩年過ごした町としても有名です。南仏の強烈な太陽を求め、 1888年2月にアルルに赴いたゴッホは翌年の5月まで滞在し、ゴッホの才能はアルルで一気に花開きます。『ひまわり』、『跳ね橋』、『夜のカフェテラス』などのゴッホの代表作を多く含む300点以上もの作品を制作しています。

絵画に描かれたゴッホが100年以上前に見ていた風景は現在でもアルル近郊のあちらこちらに見ることができ、世界中のゴッホファンが多く訪れます。

ゴッホは芸術家仲間との共同生活にあこがれ、印象派の光や浮世絵の色彩を求め、都会生活で疲弊した身体を暖かい南仏で回復させるためにアルルへの転居を決意します。ゴッホアルルを薦めたのは南仏出身のロートレックでした。

ゴッホがアルルに到着したのは初春で、まだ雪が残っている状態でしたが、アーモンドの花が咲いていました。アルルの果樹園の木々は、ゴッホが夢中になったテーマの一つで、多彩な色彩をスケッチし、いろいろなパターンの絵を描いています。
Photo『花咲く桃の木』アルルの春先の作品。かつてオランダのハーグで絵の手ほどきを受けたアントン・マヴェの死の知らせを受け、描かれたものです。絵の左下には、「マウヴェの思い出に」の文字が見えます。点描のような筆遣いで、小さな花々を一つずつ描く方法には、日本の浮世絵からの影響も見受けられます。
Photo_2『黄色い家(アルルのゴッホの家、ラマルティーヌ広場)』(1888年9月)。

浮世絵に見た日本の明るい光を求めてアルルへ来たゴッホは、芸術家村を夢見て、“黄色い家”を借ります。この絵にはゴッホの抱いていたアルルでの制作活動に対する大いなる夢と希望が随所に感じられます。残念ながらアルルでのゴッホの意欲的で壮大な計画は、他の画家仲間から賛同を得るには至らず、結局アルルに来たのはゴーギャンだけでした。
Photo_3ゴッホのファンではなくても、この『アルルの寝室』(同名の作品が3点ある、“黄色い家” の2階の部屋)には見覚えのある方が多いと思います。

“黄色い家”に移り住んだ当初、ゴッホはこの絵について、ゴーギャンに以下のように手紙を書いています。

「(最近描いた『アルルの寝室』は)色面は平坦ですが、大きなタッチでたっぷり塗ってあります。壁はうすい紫、床は色あせたような粗い赤茶、イスと寝台はクローム・イエロー、枕と敷布は薄緑がかったレモン色、毛布は血のような赤、テーブルはオレンジ、洗面器は青、窓枠は緑です。さまざまな色によって、絶対的な休息を表現しようとしました」

この作品はゴーギャンが到着する直前に描かれたもので、テーブルの上に置かれた水差しがゴーギャンを待ちわびていることを表していると言われています。
Photo_4ゴッホの最も代表的な作品のひとつ『ひまわり(14本)』(アルルで製作)。

敬愛するゴーギャンを迎える“黄色い家”のアトリエに12点の「ひまわり」を飾ろうと考えて、描かれたのがこの一連の『ひまわり』の絵でした。ひまわりは西洋で信仰や愛をを表すので、宗教的な意味を意識したとも言われています。

アルルに到着したゴーギャンは『ひまわり』を称賛し、ゴッホの代表作になると予言したそうです。ゴッホには、『ひまわり』が12点(花瓶に挿されていない構図も含む)あり、その内7点が、ゴッホの最良期であるアルル時代の作品です。
Photo_5『アルルの跳ね橋』










Photo_21『星降る夜、アルル』ゴッホが9月に描いた秋の夜空。









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『夜のカフェテラス』


ゴッホの黄色は夜の町でも輝きます。青い闇に浮かび上がるカフェテラス。 当時南仏に普及し始めたガス灯から壁に反射する光は、赤みを帯び、テーブルはライム色。街路にこぼれた光は青と混ざり合っています。闇と光のハーモニーが素晴らしいです。

この絵についてゴッホはテオに以下のような手紙を送っています。

「ぼくは今夜、かなりいい気持ちでいる。この絵がよくかけたからだ。何と言っても、カフェテラスを明るい黄色で生き生きと描けたことが一番うれしい。カフェのテラスは、店の外に張り出した天幕の下のテーブル席と店の外壁が、壁から突き出した灯りで、あたたかく黄色に照らされている。立っているウェーターの服とテーブルクロスの白さも、小さいけれど美しい。

もうひとつ、ぼくが好きなところは、通りの奥の建物の上に見える夜の空だ。ぼくはそれを深いけど明るい青で描いた。教会のステンドグラスの濃紺色を思い浮かべて。

そして、空の星を大きく、黄色の花が咲いたようにいくつもいくつも描いた、ぼくはきっと、遠くの星にも、ここと同じような明るいカフェテラスがあって、その灯りがここまで届いているのだと、思っていたのかもしれない。

そしてぼくは、何かの理由でここのカフェに来られなくなったら、あの星のカフェに行こうと思っていたのかもしれない。その願いのせいで、ひとりでにあんなに大きな星を描いたんだ。」

2005年に電気通信大学教授の小林光夫氏がコンピューターを使って分析したところ、この絵の黄色と青は黄色が35.3%、青34.9%。その差は僅か0.4%。ゴッホは計算したかのような正確さで黄色と青という補色を均等に用いていたと言うことがわかりました。

ゴッホは“炎の画家”といわれているイメージで絵を感情に任せて描いたように思われていますが、補色関係などの色と色の組み合わせやタッチの使い方に関して細心の注意を払っていたようです。ゴッホの遺品の中には編み物に使う毛糸玉があって安価な毛糸で二色の色を組み合わせて色の効果を試していたことがわかっています。
Ss95『夜のカフェテラス』で描かれたカフェ。









Ss60当時の面影が忍ばれます。
Ss92_3次回は是非、夜にこのカフェを訪れたいです。

















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ゴッホ
は敬愛しているゴーギャンがアルルにやってくるのを少年のような気持ちで心待ちにします。ゴッホは何事にも必要以上に期待をし続けてしまう性格で、無垢で純粋な人だったようです。以前東京のフィリップス・コレクション展で観た『アルルの公園の入り口』。アルルに到着するゴーギャンを待っている麦わら帽子姿のゴッホの嬉しさが絵全体に広がっていて、観ているこちらまで楽しい気持ちにさせられます。

ゴーギャンが度重なるゴッホの要請を受けてアルルに到着したのは、1888年10月。
2人は正反対の画家だったのです。絵画に対する姿勢だけでなく性格も違っていました。

敬愛するゴーギャンと共に絵画を創作するためにゴーギャンを純粋無垢な気持ちで心待ちし、様々なことを学ぼうとしていたゴッホは、相容れない2人の芸術論にショックを受けて、次第に2人の関係を悪化させ、独りになることを恐れたゴッホは嫉妬深くなり精神を病んでいきます。

Photo_10そんな状況の中、ゴーギャンは『ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ』(11月)を制作します。

11月と言えばひまわりはとっくに枯れている時期です。ゴーギャンは、描く対象の写実的表現を否定し記憶を元に描きます。現実を離れて、創造力を駆使するのです。

しかし、ゴッホは目の前に対象がないと描けません。対象を前にしてしか製作できないゴッホに対して、絵画とは想像力の翼を自由に広げて行う営みであることを、ゴーギャンはゴッホに敬愛の情を持って教えようとしたと言われています。季節はずれのひまわりの製作に没頭しているゴッホの姿をテーマにしたことにゴーギャンのゴッホに対する理解が示されていましたが、ゴッホはゴーギャンの意図と反して受け取ります。

この作品を見たゴッホは、「これは確かに私だ。しかしこれは気が狂った時の私の姿だ」

と述べ、この作品が原因の一つとなって、剃刀でゴッホはゴーギャンに襲いかかり、ゴーギャンの鋭い視線にひるみ、ゴッホは自ら剃刀で耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届けるという有名な“耳切り事件(12月23日)”を起こします(ただこの事件は、ゴーギャンとの確執のせいか、テオの婚約のせいか、原因には諸説あります)。

この事件でゴッホは警察の手で病院に入院させられ、ショックを受けたゴーギャンはアルルを去り、ゴッホとゴーギャンの共同生活は2ケ月で終止符が打たれました(この事件後、ゴッホは幻覚に悩まされ、自分自身をコントロール出来なくなり、入退院を繰り返し、アルルを去りサン・レミの精神科病院へ入院します)。

ゴーギャンが去った後、ゴッホが製作した『ゴッホの椅子』『ゴーギャンの椅子』があります。
Photo_11『ゴーギャンの椅子』 (アムステルダム・ゴッホ美術館所蔵)はアルルに来ることを躊躇っていたゴーギャンのためにゴッホが買った高価なものでした。 エレガントな『ゴーギャンの椅子』は、ゴッホのゴーギャンに対する敬愛を感じさせます。主のいない椅子が、ゴーギャンを失ったゴッホの寂寥感を伝えます。
Photo_12『ゴーギャンの椅子』と同時期に描いた質素な『ゴッホの椅子』 (ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵)。
ゴーギャンには贅沢な肘掛け椅子を、自分には粗末な硬い椅子を用意しました。
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『種まく人』(
1888年11月頃)。

聖書にしばしば登場する“種まく人”はゴッホが生涯を通じて描き続けた主題です。

アルルが憧れの日本に似ていると考えて、アルルで描いたものは、鮮やかな色の『種まく人』。

手前の黒く太い樹木は、パリで印象派の色遣いと浮世絵の構図(手前に木がある構図は模写した歌川広重の浮世絵にヒントを得た)を学んだゴッホが、ミレーの『種まく人』を描きなおすという目標を達成した作品です。

「神の言葉という“種をまく人”に僕はなりたいと願っている」(ゴッホ
Photo_13歌川広重の『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』。
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ゴッホ
がパリ時代に模写をした『日本趣味梅の花(広重による)』








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『アルルの療養院の庭』(1889年4月
オスカー・ラインハルト・コレクション)

本作はゴーギャンとの共同生活の果てに起こした“耳切り事件”後、12月末から翌年の3月末までアルルの市立病院へ2度入院したゴッホが、2度目の退院後に同病院の庭を描いた作品。

Photo_24生前唯一売れた作品『赤い葡萄畑』(モスクワ・プーシキン美術館所蔵)もアルルで製作されたものです。


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2009-07-09

フランスの異国、ブルターニュ地方を巡る旅⑪ゴーギャンが滞在した19世紀の芸術村、ポンタヴェン(Pont-Aven)へ

Bretagne315 ポンタヴェン(Pont-Aven)村の中心に行く前に、村から1キロほどの森の中にある16世紀建造のトレマロ礼拝堂(Chapelle de Tremalo)へ。
Bretagne302屋根が低い、小さな教会です。
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Bretagne304下のボタンを押して礼拝堂の電気をつけます。
Bretagne314_2内部は外から受けるイメージより、ずっと静謐な世界です。左手上方にキリスト磔刑像が見えます。
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Photoこの教会には、オルセー美術館にあるゴーギャン「黄色いキリストと自画像」(Portrait  de l'artiste au Chirist jaunne, 1889-1890)黄色いキリストのモデルになったキリスト磔刑像があります。
Bretagne305ゴーギャンの絵そのままのイメージの17世紀の木彫りのキリスト。黄色いキリストは、ゴーギャンの感性から黄色にしたのだと思っていたのですが、ゴーギャンの絵ほどではありませんが、本当に黄色でした。
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Bretagne309礼拝堂の梁にはおもしろい顔をした人間の顔が沢山刻まれています。
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Bretagne301愛の森(Bois d'Amour)を通って村の中心に向かいます。
Bretagne317村の中心に入ります。
Bretagne318ポンタヴェンは、中世には、水運を利用した交易業のほか、川沿いに水車が多く設けられたため製粉業が栄えたそうです。ただそれも商業の中心とならず、村は忘れ去られます。
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Bretagne31919世紀半ばに、偶然訪れたアメリカ人の画家が知り合いの留学生にその印象を伝えた結果、アメリカ人アーティストが集まります。
Bretagne320まもなくゴーギャンが訪れて村は復活したそうです。ゴーギャンはここでエミール・ベルナールモーリス・ドニなどと出会い、ブルターニュの民族伝統芸術の影響を受けた象徴的で太い輪郭線、鮮やかな色彩を特徴としたポンタヴェン派を作ります。
Bretagne321現在も世界各地からアーティストが集まり、通りにはギャラリーが立ち並んでいます。
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Photo_2オルセー美術館のポンタヴェン派コーナーからゴーギャンの作品を3点ご紹介します。Bretagne339
ポンタヴェンの洗濯女(Les Lavandieres a Pont-Aven)。

Bretagne338_23Bretagne337絵の中のブルーの屋根の建物はこの建物ですね。
4黄色い積み藁あるいはブロンド色の収穫(Les meules jaunne ou La moisson blonde、1889)。
5ブルターニュの景色・ムーラン・ダヴィッド(Paysage de Bretagne - Le Moulin David, 1894)。
Bretagne334ポンタヴェンには、バターのたっぷり入ったクッキー、ガレット・ブルトンヌが有名な老舗のビスケット屋さん、ビスキュトゥリー・トラウ・マッド(Biscuterie Traou Mad)があります。
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Bretagne344アーティストに愛されるのが深く納得できる、絵画的な村です。
Bretagne322アンリ・ル・ルーのお店がある、キブロンへ向かいます。

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2009-06-17

印象派の道、ノルマンディ地方へ⑦映画「男と女」の舞台、ドーヴィル(Deauville)へ

Normandie109ブリュッセルに帰る前に、大好きな映画「男と女」の舞台、ドーヴィル(Deauville)に立ち寄ります。映画の舞台のホテル「ノルマンディー・バリエール(Normandy Barriere)」ノルマンディ様式の落ち着いた外観が印象的です。
Normandie111ドーヴィルのカジノ。
市街地には高級ホテルと高級ブティックが並び、パリよりブティック巡りに向いているそうです。
Normandie110ドーヴィルはナポレオン3世の義弟のモルニ公爵が1858年から4年かけて創造した高級避暑地です。カラフルなパラソルがトレードマークです。
Normandie114カラフルなのに気品が漂っています。ドーヴィルの海岸は、「ノルマンディー海岸の女王」と呼ばれています。
Normandie112遂に来ました。「男と女」の有名なシーンの砂浜
Normandie149フランス人のカップルの何組かもこの砂浜でそのシーンを真似していました。
Normandie155クロード・ルルーシュ監督ドーヴィル滞在時、このシーンを思いついたそうです。
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Normandie154_2ブーダンデュフィドーヴィルを描いています。
Boudin3空の王者」と称されたブーダンは、晩年ドーヴィルに住んで、毎日浜辺でスケッチをしていました。
Boudinブーダンは、ドーヴィルの空が一番美しいと言っていたそうです。
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Lebassinadeauvilleデュフィの描いたドーヴィル
Normandie116ドーヴィルといえばやはり魚介類。ランチは海辺近くのレストランでいただきました。
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Normandie113魚介類の盛り合わせ!
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Normandie115ドーヴィルの海を眺めながらの新鮮な魚介類のランチは最高でした。
Normandie156少し街の周りを回ってから、ブリュッセルに帰ります。
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Normandie160ドーヴィルを後にして、
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Normandie162またノルマンディ橋に乗ります。
Normandie163ノルマンディの牧歌的な景色を見ながら、
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Normandie164430キロ先のブリュッセルへ走ります。

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2009-06-15

印象派の道、ノルマンディ地方へ⑥オンフルールの印象派の父・ウジェーヌ・ブーダン美術館(Musee Engene Boudin)

Normandie97_2オンフルールには、オンフルール生まれのウジェーヌ・ブーダンの美術館があります。
Normandie178ブーダンは、青空と白雲の表現に優れ、コローから「空の王者」としての賛辞を受けます。またモネの才能を発見し、モネにイーゼルを持ち、屋外で絵を描くことを教え、後の印象派の形成に決定的な役割を果たした画家です。

Normandie98 クールベモネなどノルマンディに滞在した画家の作品と共に、約60点のブーダンの作品が展示されています。
Normandie99cmモネ「サント・カトリーヌ教会」(1867)。
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Normandie101cmモネ「エトルタ」(1884)。
Normandie102gcクールベ「オンフルールの近くの浜辺」(1866)。
Normandie103ebブーダン「ディエップの港」(1896)。

ウジェーヌ・ブーダン美術館(Musée Eugène Boudin)
Place Erik Satie
Honfleur
Tel : 02 31 89 54 00

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2009-06-10

印象派の道、ノルマンディ地方へ③芸術家お気に入りの港町オンフルール(Honfleur)へ

Normandie55_2ル・アーブル(Le Havre)からオンフルールに向かいます。
Normandie56ノルマンディ橋。
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Normandie581995年に開通し、約2,150mのノルマンディ橋


Normandie104イギリス海峡へとつながるセーヌ河口に沿うようにして栄えた古い漁港の町、オンフルールの旧港。この港町のたたずまいが、絵画、音楽、文学にインスピレーションを与えるのでしょうか、多くの芸術家に愛された町です。

コロー、ターナーを皮切りに、その後バルビゾン派、印象派、ナビ派、フォーヴ派の画家が訪れました。

第ニ次大戦の被害に遭わず、中世風の細長い建物がそのまま残った情緒溢れる街並みが特徴です。
Normandie107様々なヨットが停泊しています。画家達に繰り返し描かれたのどかな港。
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Normandie106印象派の先駆けとなったブーダンや音楽家のサティはこの町で生まれました。
Normandie62 食材店Gribouille Honfleur
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Normandie60同じくノルマンディ地方カン(Caen)の有名な臓物系の瓶詰めの品揃えが充実していました。
Normandie64 町の中心の教会。

 

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2009-06-08

印象派の道、ノルマンディ地方へ②印象派が生まれた街・ル・アーブルのマルロー美術館(Le musée Malraux)

Normandie26エトルタの南約20キロ、パリを流れるセーヌ河が大西洋に注ぐその河口の町が、モネのルーツ、印象派の出発点となる街、ル・アーブルです。

第二次世界大戦で壊滅的な被害を被ったため、町の大部分は戦後に再建されました。その後の建築家オーギュスト・ペレによる都市計画が認められ、2005年に世界遺産に登録されています。

Normandie54この港町で夜明けの海を描き、完成された作品が、のちに印象派絵画の誕生を宣言することになるモネの「印象・日の出」です。
Photo「印象・日の出」。1873年印象派はここル・アーブルで生まれました。
Normandie53そんなル・アーブルにふさわしく、この街にはフランス第二の印象派コレクションを有すると言われているマルロー美術館があります。

当時文相を務めていた作家マルローは、第二次世界大戦で破壊されたル・アーブル美術館の代わりに新しい美術館を1961年に創設しました。
Normandie52広々とした外光が入る明るくモダンな館内。印象派の絵を鑑賞するにはぴったりです。
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Normandie51 モネの師匠であるブーダンデュフィモネはもちろん、ル・アーヴルの町にインスピレーションを受けたクールベコロールノアールシスレーなどの作品があります。
Normandie36bウジェーヌ・ブーダンは同じくノルマンディ地方のオンフルール生まれ。モネをはじめ、印象派の画家達に影響を与えた19世紀の画家です。 この美術館にはブーダンの作品が100点以上あるそうです。
Normandie49bブーダンの主題は自然の風景で、特に海と空を強調した絵画を多く描いています。ブーダンがノルマンディの海を描いた作品。
Normandie46cmブーダン「エトルタの断崖(Falaise a Etretat)」(1890-1894)。
Normandie48bヴェニスの作品も。

モネと出会ったのは、ブーダンが34歳の時です。ル・アーブルで似顔絵や風刺画などを画材屋さんの店先に並べてもらっていた当時17歳のモネの作品を見て、ブーダンはモネを誘い屋外で絵を描くことを教えます。屋外で素早く絵を仕上げるブーダンに感化され、モネは画家になる決意をします。
Normandie38bノルマンディ地方でよく見かける牧歌的な光景シリーズ。
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Normandie27cmモネの「ヴァランジュヴィルの断崖(Les Falaises de Varengeville)」(1897)。モネは、5歳の時パリからル・アーブルに移ります。
Normandie28rルノワールの「観光客(L'Excusionniste)」(1888年)。
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Normandie29dデュフィの生誕地
だけあって、素敵な絵が沢山ありました。「花の中のジャンヌ(Jeanne dans les fleurs)」 (1907)。
Normandie139 「カジノ・マリー・クリスティーヌとル・アーブルの海岸(Le Casino Marie-Christine et la plage du Havre)」(1910)。
Normandie30d「海辺を散歩する人々(Promeneur au bord de la mer)」(1925)。
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Normandie31d_2「海辺とル・アーブルの防柵(La plage et l'estacadeau)」(1926-1930)。
Normandie33d「ル・アーブルの思い出(Souvenir du Havre)
」(1921)。

Normandie35d花瓶も。「水浴する女性達と白鳥(Vase aux baigneuses et cygnes)」(1930)。
Normandie32sシスレーの「モレの橋、雷雨の効果(Le pont de Moret, effet d'orage)」(1887)。
パリで生まれたイギリス人のシスレーが、晩年の20年を過ごしたモレ・シュール・ロワン(Moret sur
Loing)
です。
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Normandie47as「サン・マメスのロワン川(Le Loing a Saint Mammes)」(1885)。初期のシスレーの絵は、色彩が地味で暗い感じの絵が多いのですが、年を経るに従って、
Normandie138多彩で明るい色使いに変わっていきます。
Normandie133 「夜明けのセーヌ川(Le Saine au Point-du-jour)」(1877)。
Normandie136ドラクロワの「狩猟犬を連れたファウストとワーグナー(Faust et Wagner avec le barbet)」。
Normandie45ed「シャンプロゼーの景色(Paysage a Champrosay)」(1849)。
Normandie34bブラックの「オンフルールのコート・ド・グラース(La Cote de Grace a Honfleur)」(1905)。コート・ド・グラース
は、オンフルールの丘で、印象派の画家達・多くの芸術家(エリック・サティもここで曲を書いたそうです)に愛された場所だそうです。
Normandie47hmマチスの「水差しの静物画(Nature morte au pichet)」(1896-1897)。
Normandie135「南仏の風景または道り(Paysage ou Rue dansleMidi)」(1919)。
Normandie142ゴーギャンの「タヒチの景色(Paysage de Te Vaa)」(1896)。
Normandie40gc クールベの「波(La Vague)」(1869)。
「パラヴァスの海辺(La mer aPalavas)」(1854)。

Normandie44p ブルゴーニュのソーリュー出身のフランソワ・ポンポンの熊の彫刻。







Le musée Malraux
2 boulevard Clemenceau
76600 Le Havre
Tel: 02 35 19 62 62

☆今日の動画☆

インターネットを通じて新人アーティストをみんなでプロデュースしていくレーベルMy Major Companyから生まれたグレゴワ-ル(Grégoire)のトワ・プリュス・モア(Toi Plus Moi)。フランス、ベルギーで人気です。

Toi Plus Moi

Toi plus moi, plus eux plus tous ceux qui le veulent,
plus lui plus elle et tout ceux qui sont seuls
allez venez et entrez dans la danse
allez venez, laissez faire l'insouciance

A deux a mille je sais qu'on est capable
tout est possible tout est réalisable
on peut s'enfuir bien plus haut que nos rêves
on peut partir bien plus loin que la grève

Oh toi plus moi, plus tous ceux qui le veulent,
plus lui plus elle plus tout ceux qui sont seuls
allez venez et entrez dans la danse
allez venez c'est notre jour de chance

avec l'envie la force et le courage
le froid la peur ne sont que des mirages
laissez tomber les malheurs pour une fois
allez venez , reprenez avec moi.

Oh toi plus moi, plus tous ceux qui le veulent,
plus lui plus elle et tout ceux qui sont seuls
allez venez et entrez dans la danse
allez venez laissez faire l'insouciance

je sais c'est vrai ma chanson est naïve
même un peu bête , mais bien inoffensive
et même si elle ne change pas le monde
elle vous invite a entrer dans la ronde

Oh toi plus moi plus tous ceux qui le veulent
plus lui plus elle et tous ceux qui sont seuls
allez venez et entrez dans la danse
allez venez c'est notre jour de chance

l'espoir l'ardeur font tous ceux qu'il te faut
mes bras mon coeur mes epaules et mon dos
je veux te voir des étoiles dans les yeux
je veux nous voir insoumis et heureux

Oh toi plus moi plus tous ceux qui le veulent
plus lui plus elle et tous ceux qui sont seuls
allez venez et entrez dans la danse
allez venez, laissez faire l'insouciance

Oh toi plus moi plus tous ceux qui le veulent
plus lui plus elle et tous ceux qui sont seuls
allez venez et entrez dans la danse
allez venez c'est notre jour de chance

Oh toi plus moi plus tous ceux qui le veulent
plus lui plus elle et tous ceux qui sont seuls
allez venez et entrez dans la danse
allez venez et entrez dans la danse

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2009-06-05

印象派の道、ノルマンディ地方へ①多くの画家が魅せられたエトルタの白亜の断崖と“アルセーヌルパンの館(Le Clos Arsène Lupin)”

Normandie01 4月のノルマンディの空。
Normandie02フランス北部、英仏海峡に面したノルマンディ地方のエトルタを目指します。ノルマンディの雲はいつもダイナミックです。
Normandie121
Normandie123菜の花畑が見えてきました。
Normandie03
Normandie119Normandie124牛達がお昼寝しています。ノルマンディ地方は、海岸線の美しさと、緑豊かに花咲き乱れる田園風景の両方に恵まれた地方です。

暖かいメキシコ湾流により良質の牧草が育ち、その牧草を食べるノルマンディの牛からは香り高い濃厚な牛乳がとれるそうです。
Normandie128世界に知られるカマンベールリヴァロポン・レヴェックのノルマンディ三大チーズは、このノルマンディの豊かな土地から生み出されたものです。
Normandie127エトルタの看板が見えてきました。
Normandie06ノルマンディ地方の中でも、エトルタの海岸の美しさはノルマンディ随一と言われ、フランス人はもちろんヨーロッパの人たちにも大変人気のあるバカンス地です。海に向かって左側にアヴァル断崖(Falaise d'Aval)、
Normandie129右側にアモン断崖(Falaise d'Amont)があります。
Normandie126アモン断崖の頂上にある海を見下ろすように建つ教会。干潮時には高さが約100mにもなるそうです。エトルタは、映画やファッション撮影のロケ地としても人気が高いです。
エトルタは、古くから海水浴場として開け、印象派の画家モネ、クールベなどがその海岸や白い断崖の美しさに魅せられて多くの作品を残しています。
Photo嵐の後のエトルタの断崖(クールベ)
Photo_2冬の魚舟(マチス)
Photo_3エトルタの尖峰(モネ)。モネは、崖、海、太陽の光が生み出すエトルタの風景を繰り返し描いています。
Photo_4エトルタの朝(モネ)。モネは、名声を得た後も何度もエトルタを訪れ、多くの名作を残しました。
Normandie130海岸から町の中心へ。
Normandie09
Normandie08お隣のブルターニュ地方の名物ガレット。
Normandie07ノルマンディの特産物、リンゴから造られるシードルと一緒に頂くのが、この地方の一般的なスタイルです。
Normandie141
Normandie10スーパー。シードルはもちろん、カルヴァドスなどの種類も多かったです。
Normandie12探偵ホテル(!)。どんな部屋なのでしょうね。一度泊まってみたいです。
Normandie04有名なリゾート地のエトルタですが、町は落ち着いた風情でコンパクトにまとまっています。
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Normandie13エトルタには、怪盗ルパンの原作者モーリス・ルブラン(Maurice Leblanc)が晩年を過ごした家があります。

その家はアルセーヌ・ルパンの館(Le Clos Arsene Lupinm)としてアルセーヌ・ルパンの博物館として公開されています。怪盗ルパン・シリーズの「奇巌城(原題は「空洞の針」)の舞台もこのエトルタです。

ちなみに日本ではルパンと発音されていますが、フランスではリュパンと発音しないと通じません。
Normandie14この館は、ルーアン出身のルブランが1918年に購入し、夏のバカンスを過ごした別荘だそうです。入口でヘッドホンを渡されます。各部屋で、ヘッドホンからルパン自らが語りかけてくれます。
Normandie15ルブランの書斎。机はルブランが実際使っていたもの。
Normandie16本当はモーパッサンのような純文学者になりたかったルブランが、友人の編集者の頼みから、しぶしぶ書いたのが怪盗ルパン。偶然から生まれた怪盗ルパンはその鮮やかな手口と血を流さない紳士的な振る舞いで熱狂的に支持され、ルブランは連載を続けることになります。

ルパンの連載以前に書いた作品が全く認められていなかったルブランは、ルパンの人気により金銭的には潤いましたが、自分が本当に書きたいものはこういうものではないとの苦悩を持ち続けました。

ルパンが私の影なのではない。私がルパンの影なのだ、と口にし、常に一人歩きするルパンというキャラクターに怯え続けたそうです。

しかし、後にルブランは「怪盗ルパンを書いたのは、事故のようなものだった。そしてそれを書くことをずっと強制された。しかし事故だったとしてもそれは私の栄光の始まりであり、歓迎すべき事故といってもいいのかもしれない。今、ルパンは私の最良の友だ。ルパンとの出会いを後悔していない」と語っています。
Normandie18ルパンが盗んだ世界の名画。モナリザも!
Normandie17華やかな社交界を舞台の盗みに必要なルパンの燕尾服とシルクハット。

ルパン作品世界を忠実に再現した部屋に入るたびに、ヘッドホンのガイドも自動的に変わります。
足音などの効果音も入って、ワクワクさせてくれます。
Normandie19旅行バック。
Normandie20ル・アーブルからアミアンのミシュランの地図。
Normandie21変装道具。
Normandie22奇巌城は、エトルタの断崖から海に伸びた象の鼻のような岩のことです。
小説ではこの岩の内部がルパンの隠れ家になっていましたが、実際は残念ながら空洞ではないそうです。Normandie24 ルパンファンの方はもちろん、そうでない方にも、エトルタは是非訪れて欲しい場所だと思います。

Le Clos Arsene Lupin, Maison Maurice Leblanc(ルパンの館、モーリス・ルブランの家)
15, rue Guy de Maupassant
76790 Etretat
Tel : 33 (0) 2 35 10 59 53

Normandie25エトルタから、“印象・日の出”誕生の町、ル・アーブルに向かいます。







☆今日の動画☆

6月2日に遂にオープンしたマグリット美術館(Musee Magritte Museum)の動画をいくつかご紹介します。

Musee Magritte Museum
Le Musee Magritte de Bruxelles ouvre ses portes gratuitement ce samedi
Opening Magritte Museum
Actu24 - Ouverture du Musee Magritte

(関連記事)
マグリットに会いに行く!ルネ・マグリット美術館

 

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