南フランス

2009-07-16

ゴッホの見た風景を探しにアルルからサン・レミ・ド・プロヴァンスへ

Ss631889年5月8日、 ゴッホはアルルからサン・レミ(Saint Remy)に到着します。
アルルでのゴーギャンとの生活に破綻し右耳を自ら削ぎ落としてしまったゴッホは精神状態がますます不安定となり、より良い環境を求めてサン・レミサン・ポール療養院に転院します。ゴッホは激しい発作に見舞われながらも、ひたむきに創作活動に励みます。

サン・レミには預言者ノストラダムスの生家(非公開)もあります。
Ss69ゴッホサン・レミに到着してすぐに描いた、療養院の庭の『アイリス』(1889年5月、ニューヨーク・個人蔵)のパネル。サン・ポール療養院周辺には、ゴッホが絵を描いた場所が散在しており、そこにはその絵の複製パネルが置かれています。100年以上の時を隔てて、ゴッホと同じ場所に立って同じ景色を見ることが出来ます。

5月中はゴッホの行動範囲は、療養院の庭の内に限られますが、6月になると、戸外で自由に制作することが許されるようになります。夏の日差しの中で彼は、オリーブ園、麦畑、糸杉などをモチーフとする傑作を次々と制作します。
Ss641889年の7月に描いた『オリーブの木(と2つのくぼみのある山)』ホイットニー・コレクション所蔵。 






Ss68療養院の裏手にはアルピーユ山脈の地面から湧き出たような奇岩、レ・ドゥ・トル(2つのくぼみの意味)が見えます。





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サン・ポール療養院

の看板。



Photo9月に入り、ゴッホはミレー、レンブラント、ドラクロワなどの版画を熱心に模写し始めました。先人の作品を模写することは伝統的な絵画勉強法の一つですが、ゴッホにとっては白黒の版画作品を色彩という独自の“言語”で“翻訳”する試みだったそうです。聖職者の道を閉ざされ宗教への反感を抱きながらも、神を希求してやまなかった想いを、ゴッホは“宗教画の模写”という口実を使って託したと言われています。ゴッホが敬愛していた画家の一人、ドラクロワのリトグラフの模写。赤い髭を生やしたキリストの容貌は、ゴッホ自身に似ていると言われますが、彼の信仰は、自分をキリストになぞらえるほどの傲慢さを持ち合わせていなかったと個人的には思います。 
 
「 苦しみの最中にも、時に宗教的な思念が心を大いに慰めてくれることがある。ついこの前、病気に襲われている間に不運なことがあった。あのドラクロワの 《 ピエタ 》 のリトグラフが、他の版画数点と一緒に油と絵具の中に落ちて、台無しになってしまったのだ。僕はとても心が痛んだ。それ以来、あれを油絵にするのに精を出している。君にもいつか見せよう。僕はそれを5号か6号のキャンヴァスに写した。感じが伝わればと思う 」(ゴッホの手紙 )
Ss67『ペイルレ峡谷』(1889年10月、ボストン美術館所蔵)。
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『アイリス』(1890年)。

ゴッホの故郷オランダでの花の静物画の伝統にアルルで習得した独自の色彩感覚で、新たな領域に昇華させます。

生命感溢れる黄色にゴッホは健康な心身への憧れを託したのでしょうか?ネーデルランド絵画で見かける折れたアイリスは、生命のはかなさを表現しています。

サン・レミからオヴェール・シュール・オワーズに移る直前の作品です。

「ゴッホはすべて乱暴と混雑の中にあるくせに、カンヴァスの上では輝いている」とはゴーギャンの言葉です。


Ss72ゴッホが描いた頃とは、景色が違っているところもあります。















Lasile『サン・レミのサン・ポール療養院(1889年10月、オルセー美術館所蔵)』
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Oliviers 『オリーブの木(と黄色い空と光輝く太陽)』(1889年9月-11月、ミネアポリス美術館所蔵)
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Olivier2 『オリーブの木』(1889年9月-12月、クレラー・ミュラー美術館所蔵)。
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『糸杉のある黄色い小麦』(1889年7月、ナショナルギャラリー所蔵)。
描いた場所はここから30分程歩いた場所だと言われています。
Lesbles
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『山のふもと』(1889年6月、個人蔵)。
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病院の外壁にそって、のんびりと歩きます。、こんな細い道にもゴッホの足跡があります。

Ss86景色はゴッホが描いたものと変わってしまったようですが。












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『(サン・ポール療養院の裏の)サン・レミの景色』(1889年10月、インディアナポリス美術館所蔵)。
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オヴェール・シュール・オワーズに旅発つ前にゴッホは記憶で描いたと言われている『糸杉の道』(1890年5月、クレラー・ミュラー美術館所蔵)。

オヴェール・シュール・オワーズからゴーギャンに宛てた手紙の下書きのなかで、ゴッホはこの作品を、サン・レミでの最後の試みのひとつ、としています。









Ss89病院の塀。









Ss119ゴッホ 晩年期の傑作『星月夜』。
















Ss117ゴッホが1889年5月から1890年5月まで入院していた療養院の入り口。








Ss91現在は観光客に開放されており、ショップも併設され、庭などが散策できますが、いまだに療養所/病院として使われている部分もあります。














Ss97ゴッホは入院当初、外出は禁止されていたので、外壁に囲まれた病院の庭で人に付き添われて製作をしました。『サンポール療養院の庭』が病院までの道の塀に飾られています。






Ss98サン・レミ在住の時に製作した『自画像』。
Ss99この病院の庭は、この頃のモチーフとして油彩やデッサンに描かれています。『下生え』。

この病院にいた頃、ピサロなどの数名の画家達がゴッホの作品に興味を持ち始め、ゴッホの作品への評価がわずかに聞こえてくるようになります。新聞の批評欄にはゴッホの作品への好意的な記事が掲載されるようになり、ブリュッセルで開かれた展覧会では唯一ゴッホの生前に売れた絵『赤い葡萄畑をテオが始めて売ります。


Photo_3アルルで描いた『赤い葡萄畑』』(モスクワ・プーシキン美術館蔵)。









Ss101ゴッホ像。度重なる「幻聴と幻覚を伴う重度の躁病の発作」に悩まされながらも、ゴッホの創作活動は衰えることを知らなかったそうです。
Ss102修道院。
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ゴッホの病室。


Ss109病室の薄暗い部屋の窓は小さく、しかも外部からはしっかりと鉄格子で隔離されていました。夏の灼熱の暑さの中、狭い病室か眺める、照りつける夏の強烈な光あふれる南仏の景色。ここの環境が彼の病気の回復にどのような影響を与えたかは知る由もないですが、ゴッホの創作意欲を掻き立てたことだけは確かなようです。


Ss107この部屋の窓から生まれたのが、















Photo_4ゴッホ晩年期の傑作『星月夜』。

月や金星の位置を基にした天文学による計算から6月19日の星空と推定され、ゴッホは実際の空を忠実に描いたと言われています。

『星月夜』は、聖書や心理学などの様々な視点から解釈されてきたミステリアスな作品です。

渦を巻く暗雲、レモンイエローの絵の具が効果的に用いられている光を放つ月の表現は観る者に強い印象を与えます。天高く伸びた糸杉を始めとする大半のものは病室から見た風景を元にされていますが、画面中央の教会と小村はゴッホの想像によって描かれました。

「自分は無性に宗教の必要を感じることがあり、そんな時は夜、外に星を描きに出る」(ゴッホの手紙)

ゴッホは星や月を託して信仰を描いたのでしょうか。
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このラベンダー畑の香りがゴッホを癒していたらいいな、と思いました。




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ゴッホがピストル自殺する5ヶ月前にサン・レミで描いた『花咲くアーモンドの枝』(1890年)

ゴッホがこの作品を描くきっかけとなったのは、弟テオ夫妻の息子の誕生でした。テオ夫妻は息子にゴッホの名前をつけます。ゴッホは自分の同じ名前の甥のために日本的情緒を感じさせる装飾的な構成で花咲くアーモンドの木を描きました。作品は完成するとすぐテオ夫妻に届けられます。

なぜ、アーモンドの花だったのでしょうか?アーモンドの花はヨーロッパでは1月末から2月ごろに咲きます。寒さに負けず、凛として、春や夏の花よりもよっぽど強い花です。

ゴッホはこの絵を描いた2年前の同じ時期、寒いパリから南仏の明るい光を求めて、アルルへ来たものの、雪が降るほど寒かったそうです。そのため、室内で、一輪のアーモンドの花、『グラスの中のアーモンドの花』を描いています。彼にとってアーモンドの花は、春を待つ希望の花だったかもしれません。

『花咲くアーモンドの枝』を描いたころ、ゴッホは精神的にかなり重い症状であったそうです。そのような中、同じ名前の甥のために、このアーモンドの花のように、強くたくましく育ってほしいという祈りで、集中力を保ち、愛情を持って必死でキャンバスに向かったのでしょう。

背景の澄み切った冬空の青が絶妙で、明るい未来を予感させます。

テオの妻ヨハンナは後に、寝室に飾られた空色の絵に赤ん坊がとても喜んだと語っています。

ゴッホは、1889年7月の激しい発作の後、彼は療養院の環境がかえって自分の精神状態にとって良くないと判断し、転地を希望します。翌年の5月16日、ゴッホはついにサン・レミを離れ、オヴェール・シュール・オワーズに向かいます。

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2009-07-14

印象派の光と浮世絵の色彩を求めゴッホが移り住んだ南フランスのアルルへ

Ss40フランスのドライブインに時々PAUL(ポール)があります。
Ss41南フランスのアルルは古代ローマ時代から中世にかけての歴史の息吹が強く感じられる町です。またアルルは中世の宗教の中心地でもあり、ロマネスク様式のサン・トロフィーム教会には彫刻装飾の美しい回廊が残っています。

そしてアルルゴッホが晩年過ごした町としても有名です。南仏の強烈な太陽を求め、 1888年2月にアルルに赴いたゴッホは翌年の5月まで滞在し、ゴッホの才能はアルルで一気に花開きます。『ひまわり』、『跳ね橋』、『夜のカフェテラス』などのゴッホの代表作を多く含む300点以上もの作品を制作しています。

絵画に描かれたゴッホが100年以上前に見ていた風景は現在でもアルル近郊のあちらこちらに見ることができ、世界中のゴッホファンが多く訪れます。

ゴッホは芸術家仲間との共同生活にあこがれ、印象派の光や浮世絵の色彩を求め、都会生活で疲弊した身体を暖かい南仏で回復させるためにアルルへの転居を決意します。ゴッホアルルを薦めたのは南仏出身のロートレックでした。

ゴッホがアルルに到着したのは初春で、まだ雪が残っている状態でしたが、アーモンドの花が咲いていました。アルルの果樹園の木々は、ゴッホが夢中になったテーマの一つで、多彩な色彩をスケッチし、いろいろなパターンの絵を描いています。
Photo『花咲く桃の木』アルルの春先の作品。かつてオランダのハーグで絵の手ほどきを受けたアントン・マヴェの死の知らせを受け、描かれたものです。絵の左下には、「マウヴェの思い出に」の文字が見えます。点描のような筆遣いで、小さな花々を一つずつ描く方法には、日本の浮世絵からの影響も見受けられます。
Photo_2『黄色い家(アルルのゴッホの家、ラマルティーヌ広場)』(1888年9月)。

浮世絵に見た日本の明るい光を求めてアルルへ来たゴッホは、芸術家村を夢見て、“黄色い家”を借ります。この絵にはゴッホの抱いていたアルルでの制作活動に対する大いなる夢と希望が随所に感じられます。残念ながらアルルでのゴッホの意欲的で壮大な計画は、他の画家仲間から賛同を得るには至らず、結局アルルに来たのはゴーギャンだけでした。
Photo_3ゴッホのファンではなくても、この『アルルの寝室』(同名の作品が3点ある、“黄色い家” の2階の部屋)には見覚えのある方が多いと思います。

“黄色い家”に移り住んだ当初、ゴッホはこの絵について、ゴーギャンに以下のように手紙を書いています。

「(最近描いた『アルルの寝室』は)色面は平坦ですが、大きなタッチでたっぷり塗ってあります。壁はうすい紫、床は色あせたような粗い赤茶、イスと寝台はクローム・イエロー、枕と敷布は薄緑がかったレモン色、毛布は血のような赤、テーブルはオレンジ、洗面器は青、窓枠は緑です。さまざまな色によって、絶対的な休息を表現しようとしました」

この作品はゴーギャンが到着する直前に描かれたもので、テーブルの上に置かれた水差しがゴーギャンを待ちわびていることを表していると言われています。
Photo_4ゴッホの最も代表的な作品のひとつ『ひまわり(14本)』(アルルで製作)。

敬愛するゴーギャンを迎える“黄色い家”のアトリエに12点の「ひまわり」を飾ろうと考えて、描かれたのがこの一連の『ひまわり』の絵でした。ひまわりは西洋で信仰や愛をを表すので、宗教的な意味を意識したとも言われています。

アルルに到着したゴーギャンは『ひまわり』を称賛し、ゴッホの代表作になると予言したそうです。ゴッホには、『ひまわり』が12点(花瓶に挿されていない構図も含む)あり、その内7点が、ゴッホの最良期であるアルル時代の作品です。
Photo_5『アルルの跳ね橋』










Photo_21『星降る夜、アルル』ゴッホが9月に描いた秋の夜空。









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『夜のカフェテラス』


ゴッホの黄色は夜の町でも輝きます。青い闇に浮かび上がるカフェテラス。 当時南仏に普及し始めたガス灯から壁に反射する光は、赤みを帯び、テーブルはライム色。街路にこぼれた光は青と混ざり合っています。闇と光のハーモニーが素晴らしいです。

この絵についてゴッホはテオに以下のような手紙を送っています。

「ぼくは今夜、かなりいい気持ちでいる。この絵がよくかけたからだ。何と言っても、カフェテラスを明るい黄色で生き生きと描けたことが一番うれしい。カフェのテラスは、店の外に張り出した天幕の下のテーブル席と店の外壁が、壁から突き出した灯りで、あたたかく黄色に照らされている。立っているウェーターの服とテーブルクロスの白さも、小さいけれど美しい。

もうひとつ、ぼくが好きなところは、通りの奥の建物の上に見える夜の空だ。ぼくはそれを深いけど明るい青で描いた。教会のステンドグラスの濃紺色を思い浮かべて。

そして、空の星を大きく、黄色の花が咲いたようにいくつもいくつも描いた、ぼくはきっと、遠くの星にも、ここと同じような明るいカフェテラスがあって、その灯りがここまで届いているのだと、思っていたのかもしれない。

そしてぼくは、何かの理由でここのカフェに来られなくなったら、あの星のカフェに行こうと思っていたのかもしれない。その願いのせいで、ひとりでにあんなに大きな星を描いたんだ。」

2005年に電気通信大学教授の小林光夫氏がコンピューターを使って分析したところ、この絵の黄色と青は黄色が35.3%、青34.9%。その差は僅か0.4%。ゴッホは計算したかのような正確さで黄色と青という補色を均等に用いていたと言うことがわかりました。

ゴッホは“炎の画家”といわれているイメージで絵を感情に任せて描いたように思われていますが、補色関係などの色と色の組み合わせやタッチの使い方に関して細心の注意を払っていたようです。ゴッホの遺品の中には編み物に使う毛糸玉があって安価な毛糸で二色の色を組み合わせて色の効果を試していたことがわかっています。
Ss95『夜のカフェテラス』で描かれたカフェ。









Ss60当時の面影が忍ばれます。
Ss92_3次回は是非、夜にこのカフェを訪れたいです。

















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ゴッホ
は敬愛しているゴーギャンがアルルにやってくるのを少年のような気持ちで心待ちにします。ゴッホは何事にも必要以上に期待をし続けてしまう性格で、無垢で純粋な人だったようです。以前東京のフィリップス・コレクション展で観た『アルルの公園の入り口』。アルルに到着するゴーギャンを待っている麦わら帽子姿のゴッホの嬉しさが絵全体に広がっていて、観ているこちらまで楽しい気持ちにさせられます。

ゴーギャンが度重なるゴッホの要請を受けてアルルに到着したのは、1888年10月。
2人は正反対の画家だったのです。絵画に対する姿勢だけでなく性格も違っていました。

敬愛するゴーギャンと共に絵画を創作するためにゴーギャンを純粋無垢な気持ちで心待ちし、様々なことを学ぼうとしていたゴッホは、相容れない2人の芸術論にショックを受けて、次第に2人の関係を悪化させ、独りになることを恐れたゴッホは嫉妬深くなり精神を病んでいきます。

Photo_10そんな状況の中、ゴーギャンは『ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ』(11月)を制作します。

11月と言えばひまわりはとっくに枯れている時期です。ゴーギャンは、描く対象の写実的表現を否定し記憶を元に描きます。現実を離れて、創造力を駆使するのです。

しかし、ゴッホは目の前に対象がないと描けません。対象を前にしてしか製作できないゴッホに対して、絵画とは想像力の翼を自由に広げて行う営みであることを、ゴーギャンはゴッホに敬愛の情を持って教えようとしたと言われています。季節はずれのひまわりの製作に没頭しているゴッホの姿をテーマにしたことにゴーギャンのゴッホに対する理解が示されていましたが、ゴッホはゴーギャンの意図と反して受け取ります。

この作品を見たゴッホは、「これは確かに私だ。しかしこれは気が狂った時の私の姿だ」

と述べ、この作品が原因の一つとなって、剃刀でゴッホはゴーギャンに襲いかかり、ゴーギャンの鋭い視線にひるみ、ゴッホは自ら剃刀で耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届けるという有名な“耳切り事件(12月23日)”を起こします(ただこの事件は、ゴーギャンとの確執のせいか、テオの婚約のせいか、原因には諸説あります)。

この事件でゴッホは警察の手で病院に入院させられ、ショックを受けたゴーギャンはアルルを去り、ゴッホとゴーギャンの共同生活は2ケ月で終止符が打たれました(この事件後、ゴッホは幻覚に悩まされ、自分自身をコントロール出来なくなり、入退院を繰り返し、アルルを去りサン・レミの精神科病院へ入院します)。

ゴーギャンが去った後、ゴッホが製作した『ゴッホの椅子』『ゴーギャンの椅子』があります。
Photo_11『ゴーギャンの椅子』 (アムステルダム・ゴッホ美術館所蔵)はアルルに来ることを躊躇っていたゴーギャンのためにゴッホが買った高価なものでした。 エレガントな『ゴーギャンの椅子』は、ゴッホのゴーギャンに対する敬愛を感じさせます。主のいない椅子が、ゴーギャンを失ったゴッホの寂寥感を伝えます。
Photo_12『ゴーギャンの椅子』と同時期に描いた質素な『ゴッホの椅子』 (ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵)。
ゴーギャンには贅沢な肘掛け椅子を、自分には粗末な硬い椅子を用意しました。
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『種まく人』(
1888年11月頃)。

聖書にしばしば登場する“種まく人”はゴッホが生涯を通じて描き続けた主題です。

アルルが憧れの日本に似ていると考えて、アルルで描いたものは、鮮やかな色の『種まく人』。

手前の黒く太い樹木は、パリで印象派の色遣いと浮世絵の構図(手前に木がある構図は模写した歌川広重の浮世絵にヒントを得た)を学んだゴッホが、ミレーの『種まく人』を描きなおすという目標を達成した作品です。

「神の言葉という“種をまく人”に僕はなりたいと願っている」(ゴッホ
Photo_13歌川広重の『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』。
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ゴッホ
がパリ時代に模写をした『日本趣味梅の花(広重による)』








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『アルルの療養院の庭』(1889年4月
オスカー・ラインハルト・コレクション)

本作はゴーギャンとの共同生活の果てに起こした“耳切り事件”後、12月末から翌年の3月末までアルルの市立病院へ2度入院したゴッホが、2度目の退院後に同病院の庭を描いた作品。

Photo_24生前唯一売れた作品『赤い葡萄畑』(モスクワ・プーシキン美術館所蔵)もアルルで製作されたものです。


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